京都町人としての三井家
筆者が学生時分に三井文庫で閲覧させていただいた史料に「加茂川筋御普請御用留幷四条橋御新造御用記」がある。幕末期、頻繁に洪水を起こす鴨川の防災のため安政3年(1856)に土砂浚渫事業(鴨川浚)が行われ、これに併せ翌年に四条通に橋が新設された。これらの事業は江戸幕府による公共事業として行われるとともに、資金的には多くの京都町人の献金によって支えられた。もちろん三井家も多額の献金をしていたことから、関連史料を求めて三井文庫を訪ね、この史料を閲覧・複写させていただいた。「御用留」・「御用記」とあるように、三井三郎助が鴨川の土砂浚渫事業、四条橋架設事業において「御入用銀請払御用」を務めた。三井組として幕府の公共事業に関わった三井家の史料から、町や町人の史料からはうかがい知ることのできない貴重な情報を得ることができた。
加えて、この史料からは、京都に店を構え、当主が暮らす、京都町人としての三井家がどのようにこれらの事業に関わったのかについても知ることができる。鴨川浚の献金は基本的に地域住民組織である町の単位を通じて集められた。このため、京都市中の各所に同苗の屋敷や店を構える三井家一統としては、個別に町ごとの献金に対応するよりも「宅々店々一緒ニして」献金したいと願っている。「町」を基礎単位とする近世京都の都市構造と都市内にひろがる同族団的結合との間の矛盾を示唆する事例といえる。
また、四条橋が新設された安政4年4月29日に渡り初め式が行われ、京都市中の70歳以上の夫婦が招かれた。この史料からは、渡り初め式に三井高就(北家7代当主)夫妻も招かれていたことが判明する。同年3月10日に町を通じて招待の連絡があったが、残念ながら病気を理由に辞退している(高就は7日後の3月17日に亡くなる)。京都町人の力で新設されたとも言える四条橋の渡り初め式に三井家の当主が参加していた可能性もあった訳である。
(住友史料館研究員)