天明六年寺社山伏百姓町人出金銀と三井
会所、従天明6年丙午6月、同7年未7月迄「証無番状留拾六」(別861)に「天明六年午七月於江戸表御呼出シ、此度為融通諸国ヘ御用金被仰付候由、手前上田両家へ右取集方被仰付候節通達」として、7月14日付、江戸別宅中宛、京同徳次郎「証無番状」がある。
前記14日付、証無番状によると、6月28日に勘定奉行所から三井次郎右衛門宛切紙で翌日登城を命ぜられたが、「右御文言是迄之様子と違候故、両替店役人中甚不審被存、依而内相伺被申候得共、一向様子相知不申」といった状況で、代理が登城すると「松本伊豆守様御直談被仰候者、近年金銀融通不宜諸家差支有之趣ニ相聞候間、金銀為融通諸国寺社山伏、御領私領百性幷諸町人出金銀之義近申渡候筈ニ有之候、依之右取集納方之義其方両家ヘ御目鑑を以被仰渡候、為出情相勤可申」と取集納方仰付であり、当惑して手蔓を通して伺ったら、「御老中方ヘ御進達ニ相成候事故、一向手差難成押而彼是申候而者其方共家ニ候儀ニ候ヘ者、何分御受可申、仮令のめり死致候迚茂於此度之義者一向御取上ケ無之旨厳敷被仰渡候由」と強圧的な答だった。
それで「此節商大切之折節、右躰之儀手前筋ヘ被仰付、世上ニて者徳用ニても有之ニ付、此方取拵候とも御評判受候而ハ呉難相済義と御同前奉存候」として、三井側からと世間で受け取られ兼ねないとしている。三井の御二方様は心痛し「諸社江御祈願被籠悪説等無之様御祈被遊候儀、拙者共も呉大切之段心痛此御事奉存候」と、三井側は「当惑至極成儀」としている。
右について田沼期政治史を研究された山田忠雄氏にお知らせすると大変興味を示されたが、程なく世を辞された。若しご存命だったら詳細をご教示いただけたのに残念である。
(国文学研究資料館名誉教授/創価大学名誉教授)