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42 石炭化学工業の展開

石炭化学の幕開け

日露戦争後、世界経済の後退と国際収支の悪化によって、国内で不況が蔓延するなか、三井鉱山は新たな事業に本格的に取り組むようになった。その主要なものが、亜鉛製錬と合成染料を中心とする化学工業であった。当時の日本では、硫酸工業などの勃興がみられたが、多くの化学製品は輸入に依存していた。たとえば、防錆防食の効果をもつ亜鉛や、国際的に急速な発展をみせていた合成染料は、その大部分をドイツから購入していた。

三井鉱山での石炭化学事業のきっかけは、三池炭鉱で金属製錬用コークスの生産を拡大することにあった。三池炭を高温乾留する際に副産物が発生し、それがコークス製造にとって弊害をもたらすため、まず副産物の回収計画がはじまった。明治45年(1912)、三池炭鉱付属の「焦煤(コークス)工場」主任中井四郎の提案により、大牟田で最新鋭のコッパース式コークス炉が建設された図を見る。それと同時に、副産物の回収工場(タール蒸留工場、ガス工場、硫安工場)も順次操業を開始した。

三井鉱山会社議案
三井鉱山会社議案

三井鉱山の取締役会で「決定」された重要な案件は、三井合名会社に提出され、そこでの承認を得なければならなかった(→39 三井財閥のガバナンス)。ここでの記事は、三井鉱山の一事業所である三池染料工業所(後の三井化学工業)において、インジゴ製造工場の設備を拡張するという案件(昭和4年10月26日に認可される)。インジゴの工業化は、三池染料工業所の名声を高めた象徴的な出来事であり、三井が化学事業部門の拡大を加速させる画期にもなった。

亜鉛製錬の開始

同じ頃、神岡鉱山(岐阜県)で亜鉛鉱の採掘に着手していた三井鉱山は、亜鉛製錬の実地調査ため、神岡鉱山の製煉主任西村小次郎をドイツへ派遣した。その調査結果をふまえて、大牟田で水平蒸留炉の建設にとりかかる。大正2年(1913)には亜鉛地金の産出に成功し、翌年1月に神岡鉱山付属「大牟田亜鉛製煉所」として操業を開始した。「焦煤(コークス)工場」からコークスを受け取るとともに、大正4年からは、同工場に亜鉛鉱の焙焼過程で製造される硫酸を送った。

合成染料の国産化

コークス製造にともなう副産物回収の基礎が築かれると、三井鉱山は合成染料の研究開発に乗り出した。牧田環図を見るの発案によって、これまで利用価値のなかった副産物のアントラセンを原料に、アリザリン染料を生産する計画がすすめられ、大正3年(1914)にアントラセン工場が「焦煤(コークス)工場」内で操業を開始した。その2年後、国産化された最初の合成染料が市場に送り出された。

大正2年頃のコッパース式コークス炉(福岡県大牟田町)
大正2年頃のコッパース式コークス炉(福岡県大牟田町)

予期せぬ成功

これらの事業へ活発に投資していた三井鉱山は、第一次世界大戦の勃発にともなう海外製品の輸入途絶によって、大きな収益をあげた。大正7年、事業再編の一環として、国内有数の亜鉛製錬工場として活躍していた神岡鉱山付属「大牟田亜鉛製煉所」は、「三井鉱山三池製煉所」と改称され、独立の事業所となった。同様に、利益を増大させていた「焦煤(コークス)工場」も「三池染料工業所」という三井鉱山の一事業所に昇格した。団琢磨(→33 三池炭鉱の払下げ)は、後に、「エクスペリメント」ではじめた事業が「コンナ事ニナッテシマッタ」と、予期せぬ成功に驚いている。ところが、戦争が終結すると輸入が再開され、一転して化学部門の成績は悪化した。特に三池染料工業所の赤字は大きく、三井内部でも批判の声が上がり始めた。しかし、牧田の岳父である団の後ろ盾もあって、三井鉱山では新たな染料事業のための試験・研究に力が注がれた。

インジゴの工業化

長年の努力が実を結び、大正15年(1926)、当時輸入が急増していたインジゴの工業化に成功した。冒頭の史料にみられるように、昭和4年(1929)に政府の奨励金を受けて、インジゴの大量生産計画が決定され、その3年後に人造藍工場が稼働した。同所で生産されたインジゴは、国内需要のほとんどを満たし、政府の輸入防圧目標をほぼ達成した。それだけでなく、「三井インジゴ」として海外でも販路を伸ばしていった。

石炭化学コンビナート

インジゴの成功を追い風にして、三井鉱山はアンモニア合成・硫安事業への進出を本格化していく。昭和6年に三池窒素工業が、その2年後に東洋高圧工業が同じく大牟田で設立された。三井鉱山の一事業所である三池染料工業所、三池製煉所、関係会社の電気学工業、三池窒素、東洋高圧は、それぞれ技術的な関連性を持ちながら発展していった。このように、副産物の有効利用をきっかけに、大牟田という一定の地域内で、相互に原料や半製品を融通する石炭化学コンビナートが成立した。

<ruby>牧田環<rt>まきたたまき</rt></ruby>(一八七一–一九四三)
牧田環まきたたまき(1871-1943)

明治28年(1895)に三井鉱山に入社後、三池港の築港工事などに力を発揮した。同35年には団琢磨の長女(芽枝子)と結婚。大正2年(1913)に三井鉱山取締役に就任、団暗殺後の昭和7年(1932)には三井合名会社の理事となる。

 

41 三井物産の多角化
43 金融部門の拡大