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41 三井物産の多角化

1920年代の三井物産

第一大戦期に、日本経済は輸出が急増し、空前のブームを経験した。その機会をとらえて多数の商社が創設されたが、それらの多くは、第一次大戦後から1920年代の間に、破綻をきたして消滅していった。

三井物産の場合も、第一次大戦期に業績を急伸させた後、戦後恐慌や1920年恐慌の際に、いくつかの支店で巨額の損失を蒙ったが、それ以前の分厚い蓄積によってカバーをすることができた。1920年代には、「地方市場」進出方針により国内売買の比率を高め、石炭・機械を中心とする安定した高収益をあげていた。

三井物産の場合、業績の善し悪しにかかわらず、配当率をほぼ一定にして、利益を内部に留保する方針がとられた。1920年代には、内部蓄積を増大させ、貿易金融の「自己金融」化も進展した。

時期にもよるが、三井物産に限らず、三井銀行や三井鉱山においても、配当は安定的で、三井合名会社としては、特に必要がなければ、直系会社に内部留保させておくという方針が窺われる。

三井物産の投資戦略の変化

三井物産では、大正7年(1918)に、従来の社内保険を縮小し、社外の別会社として大正海上火災保険を設立した。大正9年(1920)には、棉花部を分離して東洋棉花を設立した。この二社は、三井物産にとって重要な関係会社であるが、いずれも三井物産の商社としての機能の一部を外部化するという性格であった。

1920年代半ばになると、三井物産の投資戦略に変化が現れる。従来、三井物産は、一手販売権の獲得などのためにメーカーへの出資や役員の派遣を行うことはあっても、傘下に製造業を持つことは、ほとんど無かったが、この時期、あいついで製造業等の傘下会社を設立する。三機工業(大正14年、機械据付工事請負)、東洋バブコック(昭和3年、ボイラー製造)、東洋キャリア(昭和5年、空調機器)、東洋オーチス・エレベータ(昭和7年)などである。昭和3年(1928)には、日本製粉(前年破綻した鈴木商店の系列)を傘下に納めている。

大正15年(1926)の支店長会議において、筆頭常務取締役(当時の三井物産では、社長は三井家同族が務めており、筆頭常務取締役が実質的な経営トップであった)の安川雄之助図を見るが、これまでは出来る限り資金の固定を避けてきたが、「時勢対応ノ一策トシテ」今後は、金融の許す範囲内で工業並に設備事業に対する投資もおこなって行くと述べている。

人絹製造会社(東洋レーヨン)設立議案と三井合名会社「理事会記録」
人絹製造会社(東洋レーヨン)設立議案と三井合名会社「理事会記録」

右は、三井合名会社議案用箋。三井物産から大正14年(1925)9月26日に提出された議案が、翌年1月13日に三井合名会社で承認されている。通常は提出から数日内に、三井合名会社の承認が得られるが、この議案については3ヶ月余りの月日を要している。
左は、同議案を承認したことを記録した三井合名会社の「理事会記録」。三井合名会社の理事会には、三井合名会社自身の議案の他に、傘下の三井物産、三井鉱山、東神倉庫の重要議案が回付され審議されていた(→39 三井財閥のガバナンス)。「理事会記録」により、大正13年(1924)以降、昭和15年(1940)までの、三井財閥の重要な意思決定の全体像(金融部門を除く)を把握できる。

東洋レーヨンの設立

東洋レーヨン株式会社(現東レ)の設立は、こうした投資戦略を代表する案件として、安川の主導のもと推進された。同社は、大正15年(1926)1月12日、三井物産の子会社として設立された(資本金1000万円。昭和8年増資の際に、一部株式公開に踏み切るが、それ以前は、設立発起人引受株などを除いて三井物産が所有していた)。滋賀県の琵琶湖岸に工場を建設し、昭和2年(1927)8月に、ビスコースレーヨン糸の紡糸に成功し、同年末から市場への販売を開始した。東洋レーヨンは、国内市場ならびにアジア市場で、販路を広げ、順調に業績を伸ばしていった。

東洋レーヨンの商標「沖之白石」 
東洋レーヨンの商標「沖之白石」 

レーヨン(人造絹糸=人絹)は、化学繊維の一種で、生糸以上の光沢を持ち、生糸に比して安価に製造できることから1920年代以降、需要が急速に拡大した。

1930年代の投資動向

1930年代に入ると、世界経済のブロック化が進行し、三井物産の貿易取引には制約要因が増してくる。そうした状況下で、三井物産の社外投資は急増する。昭和恐慌からの回復過程(昭和9年以降)に入ると、拡大を遂げる重化学工業分野を中心に、新たな取引の確保を視野に入れた投資がなされ、傘下系列会社が増加していった。

社外投資とは別に、自社内の造船部門(大正6年に岡山県玉湾に造船部を設置)への投資も昭和6年(1931)以降増加した。造船部門は、昭和12年(1937)に株式会社玉造船所として分離独立し、昭和17年に三井造船へ社名を変更する。また、船舶部門(明治36年に船舶部を設置)でも、新型ディーゼル船への更新をはかりながら所有船腹を増大させた。船舶部は、昭和17年に、三井船舶として独立する。

日中戦争期(昭和12年以降)に入ると、戦時統制により商業活動への制約が一層増すなか、こうした投資活動はさらに加速し、三井物産は、所用資金確保のために銀行からの借入を増大させていく。

安川雄之助(一八七〇–一九四四)
安川雄之助(1870-1944)

1920年代の三井物産で経営トップを務め、東洋レーヨン設立を主導した。カミソリ安とも称せられた切れ者であったが、昭和恐慌期に財閥批判が高まりを見せる中で、財閥営利主義の象徴と目され、辞任を余儀なくされた。

 

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