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37 三井家憲の制定

三井家憲の制定

明治維新後の日本社会の近代化、とりわけ近代的法制度の整備と人心の変化に対応するため、宗竺遺書に替わる三井家の最高規範=三井家憲が必要となった。三井家憲は、明治20年代半ばの三井諸事業の整理過程でその必要性を井上かおる図を見るが強く主張し、明治31年(1898)頃から本格的検討が開始された。都筑馨六(外務官僚、井上馨の女婿)、穂積陳重(法学者)が草案を作成し、同族ならびに重役たちにより検討が重ねられ、明治33年(1900)に109条からなる成文がなった。

明治33年7月1日、三井集会所において、三井家憲実施奉告祭が挙行された。「三井家憲制定ニツキ契約」に三井11家の当主が署名し、三井家憲の同族間における有効性を確認した。また、立会人として井上馨、三井高生たかしげ(伊皿子家隠居)、三井高辰たかとき(新町家隠居)、都筑馨六が署名をした。同時に、「三井家憲施行法」「同族会事務局規則」などが制定された。

同族の範囲

三井家憲は、第1条で、三井家同族を「祖先三井宗寿(高利)居士ノ苗裔ナル各家及ヒ従来ノ家制ニ依リテ特ニ同族ニ列セル各家ヲ併セタル三井十一家ヲ総称スルモノ」(冒頭史料)と定義づけ、第6条で、「第一条ニ記載シタル同族各家ハ、祖宗ノ遺訓ニ基キ此家憲ヲ以テ永世かえルヘカラサル同族ト定メ、将来如何ナル事由アリト雖トモ廃家若クハ退族ヲ為シ又ハ新ニ他家ヲ同族ニ加フルコトヲ許サス」として、三井家の範囲を11家に限定固定した。

同族の義務、行動への規制

三井家憲では、同族の義務として、同族は同心協力すべきこと、節倹の家風を保持すべきことなどの心がまえとともに、各営業店で営業に従事することを求めていた。そして、同族の行動への具体的な制限がさだめられていた。政党に加入しあるいは公然政治に関係すること、負債をなすこと、債務の保証を為すことが禁止された。商工業を営むこと、商工業へ出資すること、三井関係以外の会社などの役員・社員となること、官務・公務につくことなどは、同族会の許可を要するとされた。

三井家憲表紙
三井家憲表紙
三井家憲
三井家憲

宗竺遺書(→09 家訓「宗竺遺書」)に替わる三井家最高の規範として制定され、明治33年(1900)7月1日に施行された。第二次大戦後、昭和21年(1946)7月16日の三井家同族会においてその廃止が決議される(→49 三井財閥の解体)まで、何度かの改訂を経ながら存続した。大きな改訂は、明治37年(1904)に、三井家同族会事務局管理部の機能強化に際してなされたもので、(三井営業店)重役会に関する条文が一括して削除されている。明治42年(1909)には、三井合名会社設立(→38 三井合名会社の設立)に合わせて必要な改訂が施されている。三井家憲は門外不出とされ、その全容は、戦後になって初めて世に知られるようになった。上掲の史料は、三井家同族会に伝わる原本で、制定後の改訂が、朱筆(一部墨筆)で加えられている。

財産

三井家憲は、同族の財産についても詳細に規定していた。同族の財産は、営業資産、共同財産、家産に分けられた。営業資産は、三井家の事業への投資資産と営業準備金であった。共同財産は、同族各家災厄の救助・同族共同の臨時負担・営業資産増加の準備などに当てられるものであった。営業資産と共同財産については、三井家同族の共有財産として三井家同族会(→38 三井合名会社の設立)の管理下で運用する財産が家産であり、各家の自由にまかされる財産であった。

各営業店からの利益配当金から、同族予備積立金(共同財産)や、各家準備積立金への積立が義務づけられており、それらの積立金の管理は同族会が行い、同族会の決議を経なければ支出できなかった。このように、同族の財産と収益には、同族会による強い規制がかかる構造となっていた。

「財産共有制」の維持

三井家憲制定の重要な目的の一つは、「個人主義」を基本とする近代的法制の整備が進展し、同族の意識も次第に変化していくなかで、近世以来の「財産共有制」を維持することであった。三井家憲の中には、「財産共有制」を表立ってうたった条項はない。しかし、制裁に関する規定で、同族除名の場合には、営業資産及び共同財産の持分を違約金として没収すると定めることにより、共有財産の分割を回避しようとしていた。

さらに、「同族間ニ如何ナル争ヲ生スルモ、裁判所ニ出訴スルコトヲ許サス、此場合ニ於テハ、先ツ同族会ノ指定シタル裁定者ノ裁断ヲ請フヘシ」(第14条)と定めることにより、財産分割を含めて、近代的法制度のもとでの、個人的(ないしは各家レベルでの)権利行使を牽制していた。

三井家顧問・井上馨

三井家憲の制定を一貫してリードした井上馨は、「三井家憲施行法」により、終身の三井家顧問の地位につき、同族ならびに重役が三井家憲を遵守するよう監督することとなった。この施行法の前文には、「……伯爵井上馨殿ハ明治七年及ヒ明治二四年ニ於テ三井家ノ危難ヲ予防シ其衰運ヲ挽回セシメ、依テ以テ今日ノ隆昌ヲ来スコトヲ得ルニ至ラシメタリ」との文言があり、明治前期における三井家の危機を乗り越えるにあたって、極めて重要な役割を井上が果たしていたことが窺い知れる。

井上<ruby>馨<rt>かおる</rt></ruby>(一八三五–一九一五 )
井上かおる(1835-1915)

明治の元勲のひとりで侯爵。外務大臣、大蔵大臣、内務大臣などを歴任。財界へ強い影響力を持った。明治6年、一時野に下った折に、三井物産の前身となる先収会社(→30 三井物産の創立)を設立した。写真は『世外井上公伝』より。

 

36 工業化路線とその挫折
38 三井合名会社の設立