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36 工業化路線とその挫折

中上川の工業化路線

明治26年(1893)11月、三井組は「元方」と改称された。三井銀行常務理事の中上川なかみがわ彦次郎(→29 三井銀行の経営改革)は、「元方委員」という名の重役を兼任し、益田孝とともに格段の重みをもって、三井内外に指導力を発揮するようになる。中上川は官営事業の払下げ、抵当流れにより、製糸・紡績・機械工場を手に入れていった。また、「預金即ち借金なり」という持論のもと、三井銀行の資金力を背景に工業会社への投資を積極的におこなった。

工業部の新設

明治27年10月、中上川主導のもと三井は「工業部」を新設し、各社所属の工場を買い取って一括で管理することにした。三井銀行から富岡製糸所、大嶹おおしま製糸所、芝浦製作所(現東芝)を、三井呉服店(→26 呉服店の分離)から新町紡績所を引き継いだ。翌年、前橋紡績株式会社の資産を買収して前橋紡績所とした。これらの工場はさまざまな経緯で三井の傘下に入った。その来歴を簡単に示しておく。

富岡製糸所 明治5年(1872)に政府の模範工場として操業開始。明治26年に三井へ払い下げられ、三井銀行の管理下に入る。

新町紡績所 明治10年(1877)、群馬県新町(現高崎市)に設立された官営模範工場。明治20年(1887)に三越得右衛門(→26 呉服店の分離)が払い下げをうけ、三井呉服店の経営となる(→新町紡績所)。

芝浦製作所 三井銀行が田中製造所の累積債務を整理する過程で入手・改称した機械工場。

大嶹おおしま製糸所 江戸商人の川村迂叟うそうが栃木県で創設した大嶹商舎。その子伝衛つたえの設立した第三十三銀行が、明治25年に破綻。その抵当流れで三井銀行の管理下に入り、大嶹製糸所となる。

前橋紡績所 旧前橋藩士らが明治14年(1881)に建設した工場。明治27年に株式会社化、翌年、三井の傘下に入る。

その他、中上川は三井銀行による投資・融資をつうじて、鐘淵紡績(後のカネボウ)、王子製紙などの経営権を掌握していった。

工業部の挫折

下の史料の記事のとおり、富岡と大嶹の両製糸所の成績は好調であった(→記事参照)。三井の首脳陣のなかでも製糸業は有望という意見がまとまり、明治28年(1895)に名古屋・三重の両製糸所が設立された。ところが、翌年に日本の生糸輸出は激減し、新設の製糸所は赤字の連続となった。富岡と大嶹の業績も悪化し、芝浦製作所も苦しい経営がつづいた。工業部門の成績がふるわないなか、明治31年末に元方工業部は廃止される。四つの製糸所と二つの紡績所は三井呉服店に、芝浦製作所は三井鉱山に引き継がれた(→富岡製糸所の生糸)。また、王子製紙、鐘淵紡績も不安定な経営をつづけ、中上川が力を入れた事業は、「失敗」と判断されるようになっていった。

工業化路線への批判

この頃、三井鉱山と三井物産の資金需要は大きく、三井銀行が資金を各工業会社に投下し続けるのは困難であった。そのため、工業部門が不振に陥ると、中上川の性急な「工業化路線」は強い批判にさらされるようになる。反中上川の急先鋒は益田孝であった。くわえて、三井家顧問の井上馨との折り合いも悪くなり、中上川は次第に発言力を失っていった。銀行の不良債権整理で政府要人に容赦しなかったこと、井上と関係の深い毛利公爵家や九州の貝島家への融資を拒否したこと、三井家憲(→37 三井家憲の制定)の制定に反対したことなどが、井上の怒りを買ったと伝えられている。

中上川の死

三井内部で孤立するようになった中上川は、明治32年(1899)秋以降、腎臓病を患い、2年後の10月に失意のなかで死去した。47歳の若さであった。中上川の死後、益田孝がリーダーシップを握って「工業化路線」からの修正を図った。富岡・大嶹おおしまなどの製糸所は原合名会社(原富太郎)に売却した。また、芝浦製作所は株式会社として分離独立させ、銀行所有の鐘淵紡績、王子製紙などの株式も一部売却し、それらを傍系の事業として位置づけた。益田は、銀行・物産・鉱山という三本柱で三井の発展を志向したのである。

元方工業部 明治27年下半季実際報告書
元方工業部 明治27年下半季実際報告書

明治26年(1893)11月、三井組は「元方」と名称を変更し、翌年10月、事業改革の一環として「工業部」を新設した。この報告書は、設立から2ヶ月後の概況を記したもので、貸借対照表、損益勘定表、財産目録などが付されている。

記事について

「各工業所ノ事」によれば、芝浦製作所が「鐘淵紡績兵庫分工場」の機械製造にとりかかったばかりで利益は出ていないこと、当初は富岡と大嶹おおしまの両製糸所の成績が良好であったことなどが分かる。このように、三井内で製造業の育成に熱心に取り組んだのは、三井銀行の抜本的な改革を推し進める中上川彦次郎であった。

新町紡績所
新町紡績所

明治31年(1898)頃の工場全景。

富岡製糸所の生糸(明治34年頃)
富岡製糸所の生糸(明治34年頃)

合名会社三井呉服店時代の生糸。明治31年(1898)末時点で、富岡製糸所は、主にアメリカへの輸出を目的に「別製飛切上」、「飛切上」、「飛切」、「壱等」、「等外」の五種の生糸を製造している。三井文庫所蔵の生糸は「飛切上」。100年以上たった今でも、その光沢は失われていない。

 

35 三池港の開港
37 三井家憲の制定