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29 三井銀行の経営改革

三井銀行の経営不振

明治15年(1882)に日本銀行が創立されると、官金を主要な資金源としていた三井銀行は、民間商業銀行への転換を迫られた。総長代理副長西邑乕四郎にしむらとらしろうのもと、民間預金の吸収は一定程度の成功をおさめたが、その一方で、融資の審査体制は整えられず、政治家がらみの貸出金が累積していた。明治24年(1891)6月時点で、三井銀行の全貸出金のうち、回収が確実とみられていたものは約3割にすぎなかった。

東本願寺書類
東本願寺書類
東本願寺書類

右の「確約書」は、三井銀行と真宗大谷派(東本願寺)との間で取り交わされた借用金に関する契約書類の写し(冒頭部分)。明治18年(1885)、三井銀行は負債を抱え込んだ東本願寺の再建に乗り出し、多額の融資を実施した。貸出金が回収されるまでの期間、東本願寺の財務に関する書類が三井銀行に提出されており、それが三井家に保存された図を見る

史料の読み

大谷派本願寺ノ財務ヲ改革セントスルニ付、別冊ニ記載スル七分利付金禄公債証書及大谷派本願寺ノ動不動産ヲ抵当トシテ三井銀行ヨリ本証書面ノ金額ヲ借用セリ(後略)

記事について

明治18年(1885)12月、大蔵大臣松方正義の要請を断れず、三井銀行は、東本願寺に30万円を融資するとともに、本山の財務改革を請け負うことになった。右の記事には、公債証書および動不動産を抵当に差し出す旨が記されている。

ところが、東本願寺の実収入は予定を下回りつづけ、三井銀行の貸出額は、年々累積して明治24年には約100万円に達した。これは、当時の三井銀行本店の貸出額の10分の1の金額であった。東本願寺に代表されるように、明治20年前後の三井銀行では、政府要人との関係から生ずる情実的な貸し付けが行われており、回収リスクの高い債権が多数存在していた。このような旧態依然とした経営を抜本的に改革したのが中上川彦次郎なかみがわひこじろうであった。

中上川彦次郎の登場

三井家に大きな影響力を持つようになっていた井上馨は(→37 三井家憲の制定)、このような状況に危機感をいだき、改革の推進者として、山陽鉄道社長の中上川なかみがわ彦次郎に白羽の矢をたてた図を見る。井上が中上川に入行を要請していた頃、京都分店が取付騒ぎに見舞われる。明治24年7月、三井銀行の経営難を指摘する記事が新聞に掲載され、京都の預金者たちの不安をあおった。掲載翌日には、預金払い出しを求める人びとが店頭に集まり、その数は午前6時に6、70人にのぼった図を見る。この騒ぎを契機に、行内でも早急な改革の実施が訴えられるようになる。一方、三井入りの誘いをうけた中上川は、まず叔父の福沢諭吉に相談していた。福沢は電報ですぐに快諾をすすめており、手紙で「三井の信用を以てすれば天下の金を左右するに足るべし」と書き送っている。それをうけて上京した中上川は、8月に三井銀行理事、翌年には副長に就任し、事実上の経営責任者の地位におさまった。

京都分店の取付騒ぎの情景
京都分店の取付騒ぎの情景

学卒者の採用と不良債権整理

中上川は、三井銀行を改革するにあたって、学卒者を積極的に採用した。特に、母校の慶應義塾出身者から有能な人材を引き入れ、奉公人中心の経営体制に新しい風を吹きこんだ。このときに登用されたのは、朝吹英二あさぶきえいじ武藤山治むとうさんじ日比翁助ひびおうすけ小林一三こばやしいちぞう、藤原銀次郎、池田成彬いけだせいひん(→45 財閥の「転向」)などであった。かれらは、その後、三井のみならず、日本の経済界で華々しく活躍することになる。人材の確保に取り組みつつ、まず中上川が着手したのが不良債権の整理であった。冒頭で紹介した東本願寺の場合、中上川は「枳殻邸きこくてい」(渉成園)の抵当権を登記すること、返済が履行されない場合はそれを競売にかけることを申し入れ、貸出金を全額回収した。同様に、債権の回収・整理を強行した事例としては、松方正義や大隈重信の口利きで貸し付けが行われていた第三十三銀行、からくり儀右衛門こと田中久重が設立した田中製造所などが有名である。その過程で、三井銀行は製糸工場、機械工場を手に入れていった(→36 工業化路線とその挫折)。

業務の合理化

さらに、中上川は政府高官(松方正義や桂太郎など)の不良債権に対しても厳しい処置をとるとともに、官金出納のために置かれた分店と出張店を適宜閉鎖していった。こうして、中央政府との癒着のなかで生まれる情実を断ち切り、最終的には、明治36年(1903)に官金取扱をすべて返上する。その他にも、貸出限度額の設定、行員の待遇改善など、さまざまな施策をすすめた。明治31年には池田成彬、米山梅吉(→43 金融部門の拡大)らを欧米に派遣し、銀行業務全般を調査させるなど、人材の育成と業務の合理化に努めている。三井銀行が普通銀行としての基礎を固めるにあたって、中上川の残した功績はきわめて大きかった。

<ruby>中上川彦次郎<rt>なかみがわひこじろう</rt></ruby>(一八五四–一九〇一)
中上川彦次郎なかみがわひこじろう(1854-1901)

豊前中津藩士の家に生まれる。母親は福沢諭吉の姉。慶應義塾卒。工部省を退官後、福沢とともに『時事新報』を創刊。三井銀行で辣腕をふるう一方で、三井の中枢部に位置して「工業化路線」を推し進めた(→36 工業化路線とその挫折)。

 

28 日本最初の私立銀行
30 三井物産の創立