28 日本最初の私立銀行
三井銀行の設立
明治5年(1872)、政府はアメリカの国法銀行をモデルにして、国立銀行条例を制定した(→25 「バンク・オブ・ジャパン」構想)。「国立銀行」(国の法律に則った民間銀行)が多数設立されることで、貨幣制度を安定させることが目論まれた。ところが、実際に開業したのは、第一国立銀行など4行のみであり、条例を改訂する必要に迫られていた。そのようななかで、「抵当増額令」の危機を切りぬけた三井組が(→27 明治七年の危機)、銀行創立の願書を東京府へ提出したのである。国立銀行以外に「銀行」の名称を使用することを禁じていた大蔵省は、新たな制度が確立するまでの措置として、法律によらず相互の合意(「人民相対」)のもとで営業を認めることとした。
三井銀行の組織
明治9年(1876)7月1日、日本最初の私立銀行として、「駿河町三井組ハウス」(→東京駿河町三井組三階家西洋形之図)で三井銀行が開業した。三井組の事業を継承し、資本金200万円で出発する。三井組の資産の一部を残した「三井組大元方」と、北家をはじめとする三井家同族(8家)が、三井銀行からの借入金を元手に、それぞれ100万円、50万円を出資するかたちとなった。残り50万円については、三井組使用人から募集した。総長(頭取にあたる)には北家当主の三井高福(→24 明治初期のリーダー)が就いたが、経営の実権を握っていたのは総長代理副長の三野村利左衛門であった(→22 開国と幕府の御用)。ただ、明治初期の三井を牽引し、銀行創立の立役者となったこの人物は、ガンのため開業式には列席できず、明治10年2月に57歳の生涯をとじた。その後継者として、養嗣子の利助が副長の座に就いた。また、役員(行員にあたる)に関しては、三井組の奉公人の大部分が継続的に雇用された。奉公人制度(→19 奉公人1 昇進と報酬)のもと、店に住み込んでいた彼らは、銀行設立の頃には原則的に通勤するようになっていく。
開業当初の営業
開業当初の主な業務は、これまでどおり、各省、各府県の官金取り扱いであった。そのため、三井組の出張店をそのまま引き継ぎ、東京本店、大阪・京都・神戸分店のほか、愛知、下関、松阪など各地に26の出張店を置いた。創立時に金銭出納を取り扱っていたのは、外務省、内務省、陸軍省、海軍省、文部省、工部省、宮内省、開拓使、その他に東京や大阪などの各府県などであった。明治13年(1880)上期末の時点で、三井銀行の預金残高における官金預かり高は43%にのぼっている。ところが、明治15年に日本銀行が開業すると、官金業務の縮小は確実なものとなった。三井銀行は官金依存からの脱却を余儀なくされ、民間預金を吸収して普通銀行への転換を図っていくことになる。
明治8年(1875)7月7日に、三井組総取締・三野村利左衛門名義で東京府へ提出された三井銀行創立願書。願書は「三井銀行創立之大意」、「三井銀行創立証書」、「三井銀行申合規則」、「三井銀行成規」、「書式」の五部からなっており、それぞれ草稿のまま提出された。上の図版は「創立之大意」の冒頭と末尾部分。三井組は、東京府をつうじて大蔵省から修正の要請をうけ、指示どおりに改訂した。そのうえで、あらためて願書を提出し、明治9年5月23日付で銀行設立の認可指令をうけた。
現代語訳
願書の趣旨は承知した。もっとも私立銀行に関する条例が制定されるまでの間、ひとまずは法律によらず、人民相対で営業を許可する。ただし、願書に貼り付けた修正文(「懸紙」)のとおりに改正すること。
記事について
東京府は、大蔵省から受けた指令をそのまま願書の末尾に朱書きし、三井組に返却した。政府の銀行制度が十分に整備されていない過渡的な状況のなかで、三井銀行の創立準備がすすめられたことを示している。
明治6年、歌川国輝(2代)筆。明治7年(1874)2月に旧呉服店の跡地に竣工した通称「駿河町三井組ハウス」。設計は「海運橋三井組ハウス」と同じく2代目清水喜助(→25 「バンク・オブ・ジャパン」構想)。総建坪約620坪で、正面と東側にはバルコニーがつけられており、屋根には巨大な鯱が載せられている。右後ろにみえるのが「海運橋三井組ハウス」(第一国立銀行)。当時、これら二つの擬洋風建築物を並べて描く構図が好まれた。