16 両替店1 両替業と御用
「両替店一巻」
衣料販売を主とする「本店一巻」(越後屋、→12 呉服店1 事業の構造と推移)に対し、融資や為替など、金融業を主とするのが「両替店一巻」(三井両替店)である。三都に両替店があり、それぞれの地の幕府機関と深く結びつきながら、連携して御用や取引をおこなっていた。他に、糸絹を扱う問屋であった京糸店・京間之町店も、経理上の都合から、この一巻に属した。
両替商とは
近世の日本では、金・銀・銅銭の三種の貨幣が併存し、交換比率は不定で、これらを両替する両替商が必要とされた。なかでも高額貨幣の金銀(江戸では金、京・大坂では銀が好まれた)を扱う三井などの「本両替」は、巨額の資金を動かす大商人であった。大都市の両替商は、単に通貨を両替するのみでなく、金融機能によって近世社会を支えていた。全国の物資を集荷・販売していた大坂の問屋商人は、両替商が融資した資金を生産地へ前貸しし、安定した集荷を実現していた。さらに、両替商が出すさまざま手形は、彼らの信用を背景に、現金銀にかわる決済手段としても用いられた。また大名たちは、大坂の両替商から融資(「大名貸」)をうけて日々の支払いをし、領民から税(主に農産物)を取り立てて精算するのが常態であった。こうした両替商の機能は、全国規模の市場と領主財政の成立、発展、維持に大きく寄与したとされる。
「大坂御金蔵銀御為替」
さらに三井らが担った御用(→御為替御用のしくみ)も大きな意味をもった。物資の集積地である大坂と、最大の消費地である江戸の間には、逆方向の二つの大きな送金の流れが存在した。江戸の問屋商人は、さまざまな物資の購入代金を大坂の問屋商人に支払う。逆に、幕府や大名は、領地で取り立てた年貢米などの農産物を大坂で換金した代金を、江戸へ送金する。三井などの両替商が、この両者をともに扱って相殺し、現金銀を運ぶ手間を省き、都市間の資金循環をスムーズにしていた。
さまざまな御用
三井両替店は他にも、大津などから江戸への為替御用や、公金を預り細かな支払いを代行する請払御用、公金を預かって運用する公金貸付、貨幣が鋳造しなおされた際の交換業務(→18 両替店3 領主たち)など、多種多様な幕府や大名の御用をつとめた。
こうして三井両替店は、近世の経済・流通、幕府・大名財政の存立に、きわめて重要な役割を果たし、またそこから安定した利益をあげていた。
京両替店で永久保存に指定されていた帳簿。金融部門である「両替店一巻」の中心である同店で、一巻が請け負った幕府の為替送金を、一口ごとに記録したもの。厚手の紙を用い、綴葉装という近世の史料では珍しい装丁で、きわめて堅牢に作られている。
寛政4年(1792)から作られた、比較的あたらしい帳簿。それまでは「押切帳」という、より広汎な内容をもつ台帳に記録していたが、幕府の御用については独立させ、この帳簿に記載するように改められた。
記事について
幕府の御為替御用の例である。上段右から、まず「定式」は定例であることを示す。続いて銀26貫目(金で約433両)という額と、小玉銀という貨幣の量の注記。「大坂御為替」は、「大坂御金蔵銀御為替」のこと。次に前年の年貢米を換金した銀であること。上段の最後は、大坂両替店がうけとった全額の半分を、京両替店が分担する意。下段に移り、「済」印は処理済を示す。日付は、大坂金蔵でうけとった日と、江戸金蔵に上納した日。最後に符丁(→19 奉公人1 昇進と報酬)で、同じ御用を担う両替商「十人組」の分担額と、合計額を記す。
年貢米は幕府の主な財源であり、この御為替は三井両替店の幕府御用の根幹であった。
「両替年代記」は、三井もその一員であった、江戸本両替仲間の記録。昭和7年(1932)・翌8年、三井高棟(→38 三井合名会社の設立)3男・高維は旧三井文庫の協力のもと、この史料を活字出版し、合わせて著名な漆器商の象彦に発注し、記念の硯箱を作った。近代に銀行を事業の一つの柱とした三井が、近世の両替業をルーツとして重んじたことが窺える。
近世の銀貨は、重さで額面が決まる秤量貨幣が主であり、両替には天秤と分銅が不可欠であった。銭升は、大量の貨幣を効率よく数えるための器具。
最も重要な御用である大坂―江戸間の場合。遠隔地間の送金(破線矢印)は相殺され、現金銀の授受(実線矢印)は都市内で済む。