1. HOME
  2. 三井のあゆみ
  3. 05 幕府御用の引き受け

三井のあゆみトップへ

05 幕府御用の引き受け

幕府の御用(呉服)

三井は貞享4年(1687)、高利の長男・高平たかひら(→06 高利の子供たち)の名で幕府の御用商人となった。右の史料は、元禄14年(1701)に高平から次の世代へ御用を引き継いだ後、幕府に提出した書面の写しで、御用を引き受けた経緯を記す。

はじめは将軍が下賜するための衣服を扱う払方御納戸はらいかたおなんど、すぐに将軍の衣服も扱う元方もとかた御納戸の御用も引き受けた。仲立ちとなったのは、5代将軍綱吉の寵臣・牧野成貞まきのなりさだであった。囲碁好きの牧野は、高利と同郷の本因坊道悦ほんいんぼうどうえつから、三井について聞き知っていたと伝えられる。

「商売記」(→04 現金掛け値なし)によれば、三井への嫌がらせは、たびたびの訴訟に加え、「浪人を雇って夜に石火矢をしかけ、奉公人もろとも全滅させる」との怪文書が近隣に出回るなど、駿河町移転後もエスカレートしていたが、三井が御用商人となって収まったという。三井は牧野家に深い恩義を感じ、成貞の没後も近世を通じて特別の扱いをした(→18 両替店3 領主たち)。

幕府の御用(為替)

さらに元禄3年(1690)、幕府の財政をつかさどる勘定所の御用も、高平と弟・高伴たかとも(→06 高利の子供たち)の名で引き受けた。三井などの商人が、幕府の公金を大坂で預かり、為替を組んで、納期までに江戸で上納する御用で、「大坂御金蔵銀御為替御用ごきんぞうぎんおかわせごよう」といった(→16 両替店1 両替業と御用)。幕府は、重要な財源である年貢米を大坂で金銀にかえ、江戸まで馬で運んでいた。為替によってこの手間を省くことにしたのである。

三井では数年前に、よく似た御用を甲府徳川家に願い出ていた。幕府御用の引き受けに際しては、勘定所の実力者・荻原重秀おぎわらしげひでの力があったらしい。

これにより三井は、恒常的に幕府から巨額の資金を預かって運用できるようになった。

金融部門の発展

三井ではすでに駿河町移転の際(→03 江戸進出)、両替店を併設していた。当初は呉服業の補助的な存在であったが、幕府の御為替御用を引き受けたことを契機に、貸付や為替をおこなう金融部門が発展していった。これに対する従来の呉服部門の諸店舗は、宝永2年(1705)「本店一巻ほんだないちまき」(→12 呉服店1 事業の構造と推移)として、金融部門の諸店舗は最終的に享保4年(1719)「両替店一巻りょうがえだないちまき」(→16 両替店1 両替業と御用)として、それぞれまとめられた。この二つが、近世の事業の両輪となった(→10 大元方1 一族と店舗の統轄)。

店舗網の拡大

こうした御用の引き受け、事業の発展に伴って、店の拡充、新設も続いていた。駿河町移転時、通りの南側(現三越)に呉服店と両替店を置いたが、すぐ手狭となり、両替店を北側(現三井本館)に移した。その隣に、綿・木綿など大衆衣料を扱う綿店わただな(後の向店むこうだな)を置いた。元禄11年(1698)には綿店と呉服店の場所が入れ替わり、江戸の名所となる駿河町の景観が成立した(→03 江戸進出)。

京都では、仕入店を大幅に拡充し、また貞享2年(1685)、西陣の織屋に資金を前貸しして織物を直接・計画的に仕入れる上之店かみのたなを新設した。翌年には新町に両替店を置き、その奥に高利が住んだ。元禄9年(1696)には糸絹をあつかう糸店を置いた。

大坂では、元禄4年(1691)に呉服の販売店を高麗橋一町目に置いた。あわせて御為替御用をになうため、両替店が置かれている。発祥の地である松坂には、伊勢の木綿を仕入れる松坂店があった。

こうして三井は、三都に多くの店をもち、幕府とも密接な関係をもつ大商人として、確固たる地位を築いた。

此度店々江申渡覚(このたびたなだなへもうしわたすおぼえ)
此度店々江申渡覚(このたびたなだなへもうしわたすおぼえ)

高利の次男・高富たかとみ(→06 高利の子供たち)が作成した、江戸の諸店にあてた分厚い規則。総領家である北家に伝わった。
宝永3年(1706)ごろの作成と推定されている。当時の高富は事業を統轄する地位にあり、この史料は来るべき世代交代に備えて、各店舗の事業のあり方を規定しておこうとしたもの。内容は非常に詳しく、重役の職務や商品の等級、書類の取り扱いにまで及び、細かく規定されている。
高利の在世中については、息子たちが様々な記録を書き残しているが、息子たち自身が中心となった、高利没後の成長期について記したものはかえって少なく、たいへん貴重な史料である。

此度店々江申渡覚(このたびたなだなへもうしわたすおぼえ)

此度店々江申渡覚(このたびたなだなへもうしわたすおぼえ)

現代語訳

由緒書(注記)
文言については牧野成貞様が指示なさった。
一つ、私(高久)の親である高平は、この江戸で以前から呉服商売をしており、24、5年前から定価を決めて世間に販売し、このことをお聞きになって、貞享4年(1687)に牧野様が高平を京都からお召しになり、早速江戸に下ったところ、牧野様が老中様方に御挨拶に参上せよと仰せなので、伺ったところ、4名の老中様が面会してくれ、おまえは世の中の役に立つもので結構であると、4名ともに仰せになり、その後江戸城へ召し出されて、払方御納戸の御用を命じられた。

史料の読み

史料の読み

現代語訳

由緒書(注記)
文言については牧野成貞様が指示なさった。
一つ、私(高久)の親である高平は、この江戸で以前から呉服商売をしており、24、5年前から定価を決めて世間に販売し、このことをお聞きになって、貞享4年(1687)に牧野様が高平を京都からお召しになり、早速江戸に下ったところ、牧野様が老中様方に御挨拶に参上せよと仰せなので、伺ったところ、4名の老中様が面会してくれ、おまえは世の中の役に立つもので結構であると、4名ともに仰せになり、その後江戸城へ召し出されて、払方御納戸の御用を命じられた。

宗寿居士由緒書
宗寿居士由緒書そうじゅこじゆいしょがき

高利の4男・高伴たかとも(→06 高利の子供たち)、晩年の享保14年(1729)の著。御用引き受けの経緯に詳しい。

御用留抜書
御用留抜書ごようどめぬきがき

両替店の幕府御用の記録抜粋。江戸両替店にあったオリジナルは焼失し、京両替店にあった写しだけが残った。

 

04 「現金掛け値なし」
06 高利の子供たち