1. HOME
  2. 私の一点
  3. 明治初期の東京における三井組と差配人

私の一点トップへ

明治初期の東京における三井組と差配人

森田 貴子
明治初期の東京における三井組と差配人
明治九年二月十九日長谷川氏御依頼ヲ以買請候銀座三丁目七番地外四ヶ所請書調書共(続118-6のうち)
明治初期の東京における三井組と差配人

「明治九年二月十九日長谷川氏御依頼ヲ以買請候銀座三丁目七番地外四ヶ所請書調書共」(続118-6のうち)は、明治9(1876)年2月20日、三井組地所掛斎藤保造から、銀座3町目7番地・同22番地・弥左衛門町8番地・新肴町14番地の差配人へ宛てた通達である。和紙に付箋4枚が付されている、明治初期の三井組地所掛等に関わる史料を綴じた続118の中の一点である。

明治初期の三井組では、新たに土地を買い入れた際、差配人を決定する必要があった。明治9年2月、三井組大元方は長谷川一忠を通して栗山半六から5か所の銀座煉瓦街の土地を買い入れた。買い入れ後、地所掛斎藤保造が当該地の差配人へ宛てた通達が当史料である。

内容は、2月分地代は三井組へ出すこと。従来通り差配するか否か「町(ママ)下ヘ下ヶ札ヲ以」って、調印の上、回答すること。「当組規則」もあるので、総代一名は地所掛へ印を用意し出頭すること。出頭時には「下ヶ札調印済」で持参すること、というものである。

従来の差配人の意思により差配人が決定していることから、地主の交代後も差配人が差配業を続けられる近世期の慣習が存続していることがわかる。一方で、業務内容や差配人給等の待遇を規定したものと推測される「当組規則」は、差配人の意思確認後に提示され、条件については、地主である三井組が主導権を握っている。差配人4名の内、3名は当該地近隣に居住しており、必ずしも居住人ではない。「下ヶ札」「継印」「廻達」という伝達方法がとられ、「明後廿二日午後一時」という定時法の時刻表示が差配人に対して用いられていることがわかる。当史料は、三井組と差配人の関係とともに、明治初期の東京の社会構造や文化をも示している。

壮大な規則、「勘定目録」、日記、書状等を含む三井文庫史料の中で、当史料は小さな史料である。だが小さな一点からも、明治初期の東京の社会をうかがうことができることは、三井文庫史料が経営史料としての意義にとどまらず、多岐にわたる可能性を持つ史料群であることを示す一点である。

(早稲田大学/近現代日本経済史)

明治初期の東京における三井組と差配人
明治九年二月十九日長谷川氏御依頼ヲ以買請候銀座三丁目七番地外四ヶ所請書調書共(続118-6のうち)
明治初期の東京における三井組と差配人