船員の町口之津における三井物産の足跡
今年は明治9年(1876)に益田孝が三井物産会社を創立してから141年目に当ります。昭和22年(1947)の旧三井物産の解散を折目とすると、前後夫々約70年を経過したことになります。
長崎県の島原半島の南端に口之津という町があります。創業時から取組んだ三池石炭の輸出には、当時は外航船が入れない三池からの積替え港が必要でした。そこで益田孝は有明海の入口に位置する天然の良港である口之津港を選びます。その地には三井物産創業からわずか2年後の明治11年(1878)に出張店(のちに支店)が設置されました。
明治42年(1909)の三池築港の完成まで、口之津は殷賑を極めます。明治29年11月(1896)には海運業が定款の目的に追加され、口之津港は三井物産社船の拠点港として、明治36年(1903)に新たに船舶部が門司に設置されるまで(翌年神戸に移転)、社船事務の中心でもありました。昭和17年(1942)に三井船舶株式会社が独立しますが、口之津はその源流の一つとなります。
益田孝は社船の重要性を繰り返し述べ、日本人船長機関長の育成登用に力を入れ、三井物産社船の船員はオフィサーもクルーもきわめて優秀として知られていました。また、口之津からも多くの優秀な船員を輩出します。三井物産「理事会議案」(物産119)によると、明治30年10月15日(1897)の第79回理事会にて「海員社宅建築ノ件」が可決され、今から120年前に海員とその家族が口之津に居住できるよう海員社宅も建設されています。
旧三井物産の初期の発展は、益田孝の三池石炭とその運搬にあたる社船へのこだわり、三池石炭の受け口として上海支店を設置して以降海外拠点を充実展開したことによるもので、口之津もそれに大きく貢献しました。
私が昭和23年(1948)に生まれた口之津には昭和29年(1954)に海員学校が設置され、戦後も多くの船乗りを輩出し船員の町として知られることになります。
(三井物産OB/元多摩大学教授/国際経営)