「政治と情報」研究のための史料
江戸幕府は文化4年(1807)6月末、前年9月から続いていたロシア軍艦による蝦夷地攻撃について、求められもしないのに情勢の概略を朝廷に報告した。幕末になると弘化3年(1846)、要求されて朝廷に近年の異国船渡来状況を報告し、ペリー来日の時はすすんで国書を送り意見すら求めた。しかし文化4年以前に幕府が対外情勢を朝廷に伝えることはなく、幕府が朝廷に対外情勢を報告する先例になった。朝廷が幕府の対外政策に介入する根拠を与え、幕末政治史にとってきわめて重要な出来事になった。
私は、なぜ幕府が朝廷に対外情勢を伝えたのかを考えるため、紛争情報の流布状況を調べた。情報には、虚実入り交じった幕府側の一方的な敗北や悲観的な状況を伝えるものが多く、なかには幕府の責任を問う意見もあった。事態を針小棒大に誇張した情報が全国各地に流布し、幕府の御威光を傷つけた。この事態をうけて幕府は文化4年6月10日、「雑説禁止令」を出し、不都合な情報の流布を押さえつけようとした。
この雑説禁止令は京都にも出され、京本店の日記「名代言贈帳」14(別1766)にその町触が写され、世間はこの噂でもちきりなのでこのような触書が流されたのだ、と記されている。これにより京都にも紛争情報が広く流布していたことを理解でき、幕府が朝廷に情報を伝えた背景であろうことを推定できた(拙著『近世後期政治史と対外関係』東京大学出版会、2005年)。紛争情報は、公刊された『大坂両替店「聞書」一』(三井文庫史料叢書)にも豊富に留められており、三井文庫所蔵史料には、「近世の政治と情報」という視点の研究をするうえで質の良い貴重な史料が豊富であることを知らされた。
(東京大学名誉教授)