動乱の京都を巡った人とカネ
幕末から維新にかけての政治的混乱の中で、徳川幕府の財政や金銀出納などに絡む多くの公式記録は失われた。幕府が江戸で貨幣を製造すると、いったん、江戸や大坂の御金蔵に備蓄され、政治・財政上の必要に応じて払出すことでマネーとなるが、その実態を幕府の史料から知るには制約が伴う。そうした時、御為替御用を担った三井両替店の記録をめくる。記されているのは「御用」の内容だけではない。幕末期の『御守護職御役屋舗御普請請拂御用留』(本361)等から、動乱期の人々の動き、カネを搬送する重量感が伝わってくる。
1862(文久2)年、幕府は京都守護職を新設した。これに伴い、京都守護職に任ぜられた会津藩主・松平容保が執務する屋敷が必要となった。費用は大坂御金蔵からカネを払出し、京都に運んで三井両替店が出納管理した。その額は約4年で7万両を越えたが、御金蔵から払出されたカネは、黄金色の小判ではなかった。「後藤包、但弐分判」と記される。「後藤包」とは、江戸の金座(責任者は後藤吉五郎)で製造した低品位の万延二分金(額面二分:1/2両)を百両分、紙で包み封印したものである。二分金一つ3gとして、7万両の重量は420kg。京都では、貨幣搬送の都度、日銭稼ぎの人足が雇われた。
江戸から上方へ派遣された幕府役人が持参していたのも万延二分金であった。大坂に着いた勘定組頭西村環助は「所持金之内百両、当惑いたし候」として、百両包を三井両替店に預けている。政情不安の時節に現金を携帯することの不安感。私たちが海外に出かける際に現金を持ち歩く感覚を思えば、想像に難くない。
再三の上洛や進軍の後、徳川家茂が大坂城に滞在すること等に必要とされる財政資金が、江戸から搬送され続けた。自転車操業のように、劣悪なカネを製造し、御金蔵から払出す様子に、幕府の断末魔を垣間見た思いがする。御為替御用を担う立場から幕府の政策をみつめ、記録した「御用留」は、動乱期を生きる幕府関係者や町の人々の生活臭までも伝えているようだ。
(日本銀行金融研究所企画役/近世貨幣史)