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「宗寿松坂ニ而之万借帳」の復元を試みて

樋口 知子
「宗寿松坂ニ而之万借帳」の復元を試みて
宗寿松坂ニ而之万借帳(北6-2)
「宗寿松坂ニ而之万借帳」の復元を試みて

定年前最後の仕事として、中田易直先生の名著『三井高利』(吉川弘文館)に使われた「宗寿松坂ニ而之万借帳」(北6-2、以下「万借帳」とする)と「宗寿自筆万覚帳」(北6-1)(ちなみに中田先生の使われたのは両方とも特番号の写本です)の翻刻を思い立ったのですが、「万借帳」にはかなりの錯簡があり、これを復元した形にして翻刻するには、その作業が必要でした。そこで原本の複製を作り、それをバラシて逆さになっている天地を揃え、干支、日付、文字や内容の照合をして並べ替えしたところ、ある程度原型に近付けることができたのですが、完璧な復元には至りませんでした。心残りはありますが、内容が少しでも読み取れたらと思います。

「万借帳」には寛文12年末までに3名の商人に500両の為替を組んで、江戸で受け取ることを仕組んだ記載があります。受取日が開店(8月)間際の延宝元年7月10日だったこと、7か月もの間為替の取組み期間があったことは興味深いことでした。また同年には京都へ、江戸からの為替送金だけでなく、松坂からも資金を送り、そのさい飛脚の初代越後屋孫兵衛も使っていることが確認できました。京都へは全部で738両強、延宝元年にすでに多額の仕入れ資金を回していたことが判ります。

小さなことでは、高利の母しゆほう(殊法)へと「内へ」という出費が数回に分けて書かれています。1か月位の間に殊法へは全部で小判34両、家には小判25両渡していますが、これが生活費だとするとかなりの額であって、「商売記」に記されているように徹底して始末にたけた殊法ですが、松坂一の葬礼を望むだけあって、暮らしの豊かさを感じました。

三井高利の5男安長(のち石井宗秀)は、10人の男兄弟のうち、ただ一人他家へ養子に出されて、その後不始末によって養家を潰し、三井家からも義絶されたわけですが、「万借帳」に「三井五郎八」の名で、父の手伝いをしていることを発見。養子に出されていなければ、他の兄弟と一緒になって父を支え、創業期の業績を称えられたかも知れないと思った次第です。

(元三井文庫研究助手)

「宗寿松坂ニ而之万借帳」の復元を試みて
宗寿松坂ニ而之万借帳(北6-2)
「宗寿松坂ニ而之万借帳」の復元を試みて