大坂の孝子・忠勤褒賞に関する史料
最近、近世後期に大坂で行われた孝子・忠勤褒賞に関心をもって、いろいろ調べている。それらは、民衆教化の目的もあって三郷町中に広く通達された。戦前に幸田成友氏が中心となって編纂された『大阪市史』第3・4巻には、大坂の町触が編年で収録されているが、その中に褒賞の通達もほぼ全体が拾われている。そもそも大坂の町触を集成するための中心的な史料の一つが三井文庫所蔵の御触帳であるが、孝子・忠勤褒賞についても同所蔵の「忠孝御触帳」(天明5年~安政3年)がベースになっている。
「忠孝御触帳」の中には、文化10(1813)年10月1日に梶木町の三井次郎右衛門借屋家守の越後屋助右衛門の倅平蔵(13歳)が孝子として褒賞された例が含まれている。その通達文は、「其方儀、父母え孝心いたし候段、奇特成義ニ付誉置、鳥目三貫文被下之」とだけあり、詳しい事情は記されていない。当初、大坂での孝子・忠勤褒賞は江戸の下知を受けて行われたが、その場合は、詳しい褒賞理由が記されて通達された。ところが、文化6(1809)年頃から大坂限りでの褒賞が激増していき、それらは褒賞理由が簡略になる。先の平蔵の一件も、その一例である。
ところが、「忠孝御触帳」には、梶木町の年寄から惣年寄に宛てた行状の書上げが留められている。この内容も『大阪市史』に収録されているので、書上げの詳細には触れないが、13歳の平蔵が、病気・乱気の母を抱える父助右衛門を助けて尽す様子が詳述されている。この書上げ写の前に「本店退役辻井助右衛門倅平蔵儀、母え孝心之趣、御公儀様え御聞達、梶木町え御尋候ニ付、丁内差上候書付之写」とメモされている。これは、三井の別家で借屋家守を勤めている越後屋助右衛門に関わるケースなので、書き留められたのであろう。これによって、他の簡略な理由しか記されない褒賞の背後にも、詳細な調査が行われたことがわかる。そして、そこには様々な人間ドラマがあったことが想像されるのである。
(大阪市立大学)