井上馨宛益田孝書簡
日本の財閥を類型化した代表的な見解は、森川英正の説である(『財閥の経営史的研究』東洋経済新報社、1980年)。森川は、三菱に代表される「同族陣頭指揮型」、住友に代表される「経営者委任型」と、この両極とは異なる中間の型を設定した。この型について森川は、「支配者である家族と専門経営者が最高政策決定にかんする実権を事実上分有し、しかも、両者の間の権限責任の区別が不分明である」とその特徴を説明し、この第三の類型の代表を三井としている。
ただし、実際の三井財閥に関しては、同族が「専門経営者に政策決定を一任しておきながら、けじめなくこれに介入するという不分明な様相が三井財閥を特徴づけた」と説明しており、上記の特徴とは微妙に異なる説明をしている。あたかも、「同族陣頭指揮型」と「経営者委任型」の両極の間に第三だけでなく、第四の類型があるかのような説明になっている。その後、森川の三類型(ただし事実上、四類型に見える)説は通説となっていった。
ところが井上馨宛益田孝書簡の解読を進めていたところ(解読した書簡は『三井文庫論叢』第16号、1982年に掲載)、三井財閥は森川のどの類型にもまったく当てはまらず、しかも財閥同族と専門経営者との関係のみで類型化するのは不適切であると思うに至った。結論を記すと、三井財閥では政策決定の実権は井上馨にあり、重要案件を実施したい場合、専門経営者の間で意思を確認したのち、三井同族に承認を求め、さらに井上馨の最終的な承認をえる必要があった。もし井上が承認すれば、三井同族の中に異論を唱えるものがあっても、三井同族は井上の意思に従わざるをえなかったのである。この井上・同族・専門経営者の関係は、1903年の三井物産による上海紡績への出資(中国紡績業への日本からの最初の資本輸出)を三井財閥が決定する過程で作成された益田孝の書簡(3月28日付)などに如実に表れている。このように井上が三井家顧問であった1915年までは、これまでの通説では捉えられない全く異なる意思決定の仕組みが三井財閥にあったと考えるようになった。
(埼玉大学名誉教授)