『染代覚帳』-染織史研究における新たな手がかり-
『染代覚帳』は縦26.5㎝、横18㎝、14丁から成り、多様な種類の染色・加工名称およびその価格が墨書されている。奥書や印記などから、この史料は天和3(1683)年当時に、上方の呉服屋で扱った染物の代金を写したもので、その後新町三井家8代または9代のコレクションとなったことがわかる。
近世初期の小袖服飾・染織をテーマとして研究してきた。とりわけ、年紀の明らかな現存資料の空白期とされる、天和年間の小袖染織の実態に迫ることは、大きな目標の一つとして掲げてきたものであった。先行の小袖研究は、現存資料のほか、文献や小袖雛形本から意匠形式や文様表現、染織技法について言及するものが多い。その際に研究対象となる資料は身分の高い人々の服飾に関するものが多く、庶民層に近い人々については資料を見つけることすら困難なのが現状である。ところが『染代覚帳』に記載されているのは、絹紬地や麻地に施された染物名称と反物価格である。絹紬は当時、町人層に唯一着用が許された安価な絹地の種類を示し、麻は夏の素材や裃として使われたほか、庶民層の服地でもあった。また、染物の価格を詳細に記している史料は大変珍しい。さらに反物代金は、上中下のランクが設定され、その大半は当時の物価と比較する限り決して高価ではないことも分かった。つまり『染代覚帳』は、天和年間の下級武士や町人・庶民層・女性を含む客を対象とした商品のリストと価格が記されている得難い史料なのだ。
様々な史料を渉猟する中で三井文庫の『染代覚帳』に辿り着いたのは2010年。服飾・染織史の分野で未発表の史料を研究する機会を得たことで、これまで不明とされてきた天和年間の小袖服飾の新たな一面に迫ることができた。研究の成果は、東京国立博物館研究誌『MUSEUM』635号(2011)および636号(2012)に掲載され、これをきっかけとして博士号の取得も叶った。『染代覚帳』との運命的な出会いに感謝しつつ、この史料を核として今後も研究に取り組む所存である。
(東京藝術大学・日本女子大学他非常勤講師/日本服飾史、東洋染織史)