津上製作所と三井物産
総合商社が機械メーカーの可能性をどう評価し、いかなる議論を経て代理店関係を結び、さらに場合によっては経営参加に至るのかといった一連の問題が長く気になっていたが、資料的になかなか見通しがつかなかった。そんな折、1930年代に精密測定機器分野で日本を代表する企業に成長する津上製作所が三井物産と深い関係にあったことを知った。
三井文庫には三井物産機械部と精密測定器具メーカーの複雑な関係を考える上できわめて有用な資料群が所蔵されていた。三井物産機械部東京支部機械掛「津上製作所製品ニ就テ」昭和6年1月27日(物産2367-41)には、津上の「製品ニ対スル世評」、「製品ノ将来」、「競争者」に関する克明な調査結果が記載されている。その結果、東京支部機械掛は「同所ハ現在小規模ノ工場ニ御座候共前記ノ如ク有望ナル将来ヲ有シ居候間今ノ内ヨリ相当手ヲ入レテ育テ上ゲル方得策ト存候」と判断し、これを受けた社内関係部署での検討を経て半年後に物産と津上の間で一手販売契約が締結される。
続いて1934~35年の津上の大型増資に応じることで三井物産の津上に対する持株比率は8割を超え、物産出身の重役も6名に達した。しかしこの時期津上は急成長企業にありがちな生産・工程管理の未確立という問題に直面しており、納期管理の甘さを指摘する大阪砲兵工廠の声を、物産大阪支店は津上の専務取締役(物産からの派遣重役)に伝えている。
1936年11月に創業者の津上退助は数十名の部下を引き連れて津上を離れ、新たに新潟長岡市に新会社を設立する。その背景には魚雷や魚雷用コンプレッサー生産を慫慂する海軍とあくまで精密測定器具生産にこだわる退助の対立があったが、物産が退助を擁護することはなかった。次第に軍需関連生産に傾斜していく中で、技術的に優秀であるが、克服すべき課題も多い中小企業をどう育成していくのか、物産の悩みも深かった。
(南山大学)