「三井物産支店長会議議事録」
三井文庫へは、大学院の先輩で、早世された山下直登さんが連れて行って下さった。「すごい所ですよ。きっとあなたの研究に大いに役に立ちます」と。
大学院に入ったばかりの私は、日本が戦争への道を歩んでいった時期を研究したいと思っていた。しかし歴史学の何たるかもわからず、天皇制ファシズム論や国家権力論、昭和史の名著等々を読みふけるしかなかった。そんな時に三井文庫にめぐりあい、文庫の資料に手当たり次第に目を通すうち、「三井物産支店長会議議事録」に出会った。そこにはビジネスマンたちの激論が息づいていただけでなく、リアルな満州や中国の経済と社会が広がっていた。張作霖は何で儲けて財政・権力基盤を維持しているのか、日本企業と何を争っているのか、中国経済の根幹はどこにあり、日本の企業や軍はそこで何をしているのか、全てが映画のように鮮やかに目の前に広がっていた。満州の広い大地や細かい砂塵に満ちた空気、大豆を運ぶ荷馬車の列までも感じることができた。
これが歴史なのだ、過去のまるごとの現実そのものこそ歴史なのだ、歴史は歴史家の史書やテーゼにあるのではないとその時私は悟った。そして初めての本格的な論文・「三井物産と満州・中国市場」を書いた。日本の対外政策を日本資本主義や企業経営と一体で書きたいと思っていた私にとって、三井物産という日本最大企業、日本の輸出入の20%も時には支配する企業、最初に中国に支店網を築き、政権の中枢とも結びつた巨大企業の内部資料を、丸ごと読めたのは僥倖としか言いようがなかった。この資料によって私は、曲がりなりにも研究者として生きていく「よすが」を与えられた。その後、私は日本と海外でさまざまな機関や個人宅での資料を収集し続けたが、三井文庫の資料ほど精緻でリアルで完璧に保存されたものは見つけられなかった。三井文庫は企業の内部資料では「世界文化遺産」にすら値すると私は思っている。
(名古屋経済大学名誉教授)