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三条実美の貸上げ金命令と三井家の対応

小泉 雅弘
三条実美の貸上げ金命令と三井家の対応
大元方「書状之留」(別426)
三条実美の貸上げ金命令と三井家の対応

「書状之留」(別426)は慶応元年から明治4年までの書状写であり、明治維新期における社会状況や三井家の内情を窺うことができる史料の一つである。この中で、特に明治元年9月19日付三郎助宛の次郎右衛門・八郎右衛門書状に注目したい。

同年8月26日、右大臣三条実美は三井家名代に面会して30万両の貸上げ金を命じた。奥羽出兵の資金、天皇の東幸にともなう西の丸御殿や曲輪の修復などに必要だというのがその理由である。

当時、三条は江戸城に置かれた鎮将府(駿河以東13か国を管轄する広域的統治機関)の鎮将(長官)であり、東国経営の最高責任者であった。これより先の6月27日、三条と参与大久保利通・木戸孝允らは東幸の実施で合意していた。そして、7月17日には江戸を東京と改め、鎮将府と東京府の創設を布告した。「東京」という名称自体が天皇の居所を意味しており、東京遷都への布石だったと考えられる。大久保らが反対派を抑えながら東幸実現へ向けて奔走する一方、新政府に財政的余裕はなく、そのため三井家などへの貸上げ金命令となったのである。

これ以前から新政府へ資金を調達していた三井家は、金策の手段がないため歎願書(本1219-5)を提出するが、東京府の山口範蔵(尚芳)は「三井家一向御役ニ相立不申、甚不出精之次第と厳敷御談」じて歎願に応じなかった。結局、「甚難渋絶体絶命」のなかで、三井家はとりあえず5万両の貸上げ金を差し出すことにした。この間の新政府と三井家との駆け引きが興味深い。

なお、この書状は『第一稿本三井家史料北家第八代三井高福』第3巻に収録されているが、管見の限り、先行研究において内容に踏み込んだ検討がされているとは言えない。今後は明治維新期の財政史・経営史に加え、政治史・社会史・地域史などへの三井文庫所蔵史料の積極的な活用が望まれる。

(駒澤大学文学部教授/明治維新史)

三条実美の貸上げ金命令と三井家の対応
大元方「書状之留」(別426)
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