近代日中関係史と「語り」
日本近代史研究において、文献史料が基礎となることはいうまでもない。しかし、文献史料のみから、文書などの形で残されることのない機微に触れる情報、書き記すまでもない同時代の共通認識などを読み取ることはなかなか困難である。聞き取り調査ないしオーラル・ヒストリーは、こうした課題を克服するための有効な手段の一つとされている。三井文庫には、井上馨の死後10年余りが経過した昭和3~9年に、『世外井上公伝』の編纂を目的として行われた聞き取り調査に関する史料が所蔵されている(「特別収集資料」請求番号W-4)。
日中間の経済事業に関する史料として特に注目したいのが、「西澤公雄氏談話速記原稿(漢冶萍に対する井上侯の尽力)」(W-4-700)、「小田切万寿之助氏談話速記原稿」(同)である。一つの冊子にまとめられたこれらの史料は、近代中国最大の製鉄会社であった漢冶萍公司への井上の関与を主な内容とする。西澤は技師として漢冶萍公司に長年勤務し、小田切は横浜正金銀行の銀行家として漢冶萍公司と日本との借款交渉に携わった。彼らは、井上に関する思い出をはじめ、中国の政治経済の状況、日本側と外国勢力との激しい経済競争、漢冶萍公司の経営陣に対する評価など、外交文書からは窺い知ることができないような興味深いエピソードを述べている。過去を再構成した物語性の強い史料であるため、事実誤認や脚色などが見られ、また、収集された経緯からして井上の事蹟を顕彰する傾向があるものの、日本と漢冶萍公司との関係を知るための貴重な情報を数多く含んでいる。このことは、井上のもとに中国に関する数多くの情報が伝えられており、井上の政治経済活動が幅広い分野に及んでいたことを示すものともいえよう。
近現代において相互の関係性や認識の振れ幅が大きい日中関係だからこそ、当事者たちの「語り」を批判的に活用することで、現在の我々が持っている、そして、過去の人々が持っていた認識の枠組みを相対化し、リアリティのある近代日中関係史を構築していくことが重要ではないだろうか。
(京都大学特定助教)